2006.03.01「死のドライブ」その5

おまち堂のコラム

現地を出発した約1時間後、友人を家まで送り届ける前に、僕達は晩御飯を食べるために、ちゃんこ鍋屋に立ち寄りました。

そこで、僕らは、お互いの労をねぎらいながら、盛大に食事をしました。

友人が、「どこの宴会やねん!頼み過ぎやわ!」ちゅうぐらいに、いつもの癖で、僕は大量に注文をしてしまいました。ちゃんこ鍋に、お寿司に、造りの盛り合わせ、天ぷらの盛り合わせ、但馬地鶏の唐揚げetc.・・・・・・・テーブルには、ところ狭しと料理が置かれていました。

せやけど、この日の重労働を振り返ってみると、それぐらいの料理を食べる権利は、僕らには、十分にあるように思われました。

友人は、「俺は、もっと軽い物置やと思ったから引き受けたんやがな。最初から、こんなんやって分かっとったら、絶対に引き受けんかったわ!」そない言うて、大声で笑いました。

「俺かて、そうやわ。最初から分かっとったら、わざわざ命の危険を冒してまで、普通タイヤで、あんなもん積みに雪国まで来るかいな!」僕は言いました。

せやけど、何やかんや言うても、持つべき物は友達です。そない言いながらでも、彼が、僕を恨んでへんちゅう事は、長い付き合いで分かっています。彼も、僕同様に、面白い話のネタができたと喜んでるはずやと信じています。

もし、彼の存在があれへんたら、もし、おかんを連れて来とったら、恐らく、僕は小屋の購入は断念しとったと思います。

せやけど、冷静に考えてみると、その方が、実は幸せやったんやないかとも、ふと思いました。何しか、僕は、これから、あんだけの不安定な危険極まりない積荷を積んで、遠く離れた大阪まで帰らんとあきませんでした。時速30キロで、約200キロの距離を夜通し走るやなんて、まさに気の遠くなるような話でした。

21時頃には食事を終えて、しばらく後に、友人と別れた僕は、一人淋しく大阪に向かいました。

僕は、おかんに電話を掛けて、「明日、物置作るん手伝うて言うとったけど、これは無理やわ。こんなん物置ちゃうわ。とんでもないもん、積んでしもたわ。今、まだ豊岡やけど、荷崩れ起こさんように、時速30キロで帰るわ。何の連絡もなかったら無事に帰れたと思っとって。明日の約束は、なしにしとって。」そない言いました。

おかんは、「何で、最初に見た時に、”こんなん想像と違う。”って断らんかったんよ!」と僕に言いました。

「せやけど、もう積んでしもたんやからしゃぁない(仕方ない)がな!」僕は、そない言う以外に言葉が見つかりませんでした。

おかんの代わりに、また別の友人と連絡を取って、翌日は、その人が来てくれる事になりました。彼は、昼から仕事があったんですけど、それでも、午前中に手伝いに来てくれると言うてくれました。ほんまに、持つべき物は友達やと、つくづくと感じた、その日の僕でした。

僕は、上り下りの激しい山道を避けて、ただ、ひたすら大きな国道を低速で走り続けました。上り下りが激しくて、曲がりくねった山道を走ると、積荷のバランスが崩れて、崖下に転落してしまう可能性も、なきにしもあらずでした。山道は、道が凍結していて危険やったっちゅうのも、その理由の一つでした。

一車線の道路を走行中に、ふと気が付くと、僕のトラックの後ろに5台も6台も車が連なっているような事が何回もありました。その度に、僕は、少し道路が広くなった場所で左に寄って、後続車に道を譲る事を繰り返しました。

どんだけ、みんなに非難ごうごうとされたとしても、何しか、積荷が崩れてしまうような事態だけは避けんとあきませんでした。一旦、積荷が傾き始めたら、僕一人の力では、どないも立て直されへんし、そないなってしもたら、後はもう、バタンと横に倒れてしまうのを待つ事しかできませんでした。

倒れてしもたら、しもたで、もちろん、再び一人で載せる事は不可能やし、100万歩譲って、再度、荷台に載せる事ができたとしても、再び走り出して大阪に帰れるような状態にする事は不可能でした。

つっかえ棒を打ち込むには、現地で、売り主さんが使っていた電動のドライバーが必要なんですけど、そんなものは、僕は持ち合わせていませんでした。荷崩れを起こしてしもたら、もうお手上げ状態です。まさに僕は、その場で立ち往生してしまう以外に、どないもできませんでした。

万が一、こんだけの重量のパネルが、倒れて、横を通ってる車を直撃してしもたら、その車の運転手さんは、無事では済まんでしょうし、視界の悪い深夜に、こんだけの積荷が道路に散乱してしもたら、急停車した車同士を巻き込む重篤な玉突き事故が起こってしまわんとも限りませんでした。

まさに、僕にできる唯一の事は、「このままの積荷の状態で、大阪まで生きて帰る事」、ただそれだけでした。

車を運転しながら、僕の頭の中には、映画”バック トゥー ザ フューチャー2”(古くてごめんなさい!)のドクのセリフ、”We must succeed!”(成功しなければならない=失敗は許されん!)が、こだましていました。

極端な低速走行で周囲の人に多少の迷惑を掛けてしまおうが、重大な事故を引き起こしてしまうよりかは、はるかにマシです。僕は、そない開き直って、ただただ、細心の注意を払いながら、ハンドルを握っていました。

”バック トゥー ザ フューチャー”と言えば、現地で、売り主のおっちゃんが、僕のトラックの上に乗って、電動ドライバーで積み荷にネジを打ち込んでいた時に、コード引っ張って、コンセントが抜けてしまった事がありました。その時、おっちゃんが、「”バック トゥー ザ フューチャー”か・・・・。」と小声で呟いたのを聞いて、僕は、一人で受けて、声を上げてってしまいました。

英語の勉強のために、昨年に、何十回と、その映画を見ていた僕にとっては、それらの言葉はお馴染みになっていました。

僕は、しばらく走るごとに車を降りて、積み荷の状態とロープの締り具合とを確認しました。ほんでもって、その度ごとに、デジカメで積み荷の写真撮影をして、前回の写真と、その違いを比較していました。

途中で、明らかに、積み荷が、徐々に徐々に、ではあるけど、左に傾き始めている事に気付きました。せやけど、それは、まだまだ、許容の範囲内でした。センチにすると、ほんの3~4cmの傾きやったと思います。ロープの締り具合も大丈夫やったんで、僕は、そのまま慎重に走り出し、大阪に向かいました。

国道9号線から、国道173号線に入り、ようやくの事で、大阪府能勢町まで帰って来ました。時刻はすでに午前2時を回っていました。

押し寄せる睡魔とも戦いながら、何とか、僕は家に辿り着きました。

最初は、家には帰らず、直接、兵庫県猪名川町の土地に行って、そこで夜を明かそうかとも考えてたんですけど、結局、一度、家に帰って、ほんのちょっとでも睡眠を取って、翌日(もうその日)の荷下ろしに備えようと思いました。寒いトラックの中では、とても、ゆっくり寝れそうにありませんでした。

前日も、かなり早起きをして出発した為、十分な睡眠時間が取れていなかった上に、小屋の解体・積み込みという激務をこなして、その後に長時間、神経を使いながら車の運転をしていましたので、ほんのちょっとでも、僕には休息が必要でした。

家に辿り着いたのは、午前4時でした。それから、僕は床に就いて、3時間だけ睡眠をとった後、荷下ろしを手伝うてくれる友人を迎えに行きました。

荷下ろし作業も、組み立て作業も、大変な労働になるやろうけど、それでも、僕は、今回の一連の出来事を通して、死者が一人も出なかった事に、素直に感謝していました。

朝、顔を合わせた親父が僕に言いました。「おまえ、無茶なことばっかりしとるな・・・・・。」

今まで、僕は自分が、そないに無茶をしてるっちゅう自覚はほとんどなかったんですけど、今回ばっかりは、その事を自覚せずにはおれませんでした。どない考えても、今回の僕は、命を賭ける場所を間違えています・・・・・。

せやけど、楽しかったんで、全ては”結果オーライ”ちゅう事にしといてください!

こないに思てしまう性格が治らんうちは、また、そのうちどっかで、無茶な事をしてしまうんやろな・・・・。僕は、大腸の病気よりも、さらにタチの悪い、とんだ”病気持ち”みたいですわ、、、、、。

あっ、そうそう、忘れてました。そない言うたら、僕はもう”家持ち”ですからっ!  V(^o^)V

↓ 山に到着した積荷

~完~

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