僕たちは、ズボラヤを出ました。
A子は、店を出る前に、フグのヒレ酒用のお土産のヒレ?を購入していました。
僕は、大学時代から20年近くが経過した今も、昔もビールオンリーのお子ちゃまですが、A子は、ヒレ酒をあおる大人の女性になっていました。
店を後にした僕らは、地下鉄堺筋線を使い、長堀橋駅から電車に乗り、天神橋筋六丁目駅で下車しました。
とりあえずは、天神橋筋商店街には到着した僕らでしたが、その後、どこに向かったらええのか、分かりませんでした。
ちなみに、”天神橋筋商店街”というのは、南北に約2.6kmの長さがあり、直線では、日本で一番長い、我らが大阪の誇る、日本一の商店街です。
「花火が上がる言うたら、当然、川辺になるやろうから、もし、ここら辺で、花火が上がるとしたら、長柄橋方面の淀川の方とちゃうやろか??」
そないに思った僕は、とりあえず、最初は、商店街を出て、長柄橋の方へと歩き出しました。
せやけど、商店街を出て、しばらく歩き始めた時点で、すぐに、僕は、あまりにも、人の流れがなさ過ぎる事に気付きました。
「花火が上がるんは、こっちやないわ!まだ時間が早いとはいえ、全然、人がおらんし、露店も出てへん。花火が上がるんは、また違う場所やな!」
その時、時刻は、まだ16時台でした。
39歳にして天神祭初参加の僕は、まさか、大阪市内のど真ん中で、今までテレビのニュースや新聞で見ていたような、盛大な花火が打ち上がるとは常識的に思わんかったんですけど、それでも、長柄橋の方で花火の上がる気配が感じられへんかった以上、その足を、大阪市内のど真ん中に向けて進めなしゃぁなかったです・・・・・。
長良橋方面行きを諦めた僕らは、再度、商店街に足を踏み入れ、日本一の長さを誇る商店街の端から、市内のど真ん中に向かって、歩き始めました。
と、そこで僕らは、最初の神輿に遭遇しました。
”天神祭”というのが、一体全体、何を祝う祭りなのかは、大阪人のくせに、恥ずかしながら、全く知らん僕ですけど、この、”一銭の銭にもならないような事”に対して、ここまで、一生懸命に、我を忘れて汗を流すという経験は、やはり、今も昔も、若い人たちにとっては、必要不可欠なんやないかと、ふと思いました。
今は、学校でのクラブ活動という、ストレスの発散場所がありますが、祭りの起源とされる太古の昔には、そういったものは、当然なかったと思います。
その頃の”祭り”というのは、若者の一種のストレスの発散場所であり、男女の出会いの場所であったに違いないと思います。
太古の昔から、途切れる事なく続いている“祭り”には、仮に、その起源が分からなかったとしても、何やら、人を、無条件に、おめでたいような気分にさせる、人間の本能に訴えかける力があるように思います。
この、”一見すると、無駄とも思えるような事”に、一生懸命に、汗を流せる人達に、僕は敬意を表したいと思います。損得勘定抜きに行動できる人が、僕は好きです。
と、そうこうしているうちに、2組目の団体に遭遇しました。
僕は、この黄色と赤の傘を見て、1990年に、当時、押しも押されぬ国民的アイドルやった宮沢りえが、ポカリスエットのCMで、同じような傘を持って踊っていたのを思い出しました。
宮沢りえは、僕と同い年です。1990年と言えば、僕は、高校1~2年生やったんですけど、この頃は、宮沢りえと西田ひかるが、人気のあるアイドルでした。西田ひかるは、僕より1歳年上です。
クラスの中では、西田ひかる派も多かったんですけど、僕は、宮沢りえ派でした。
せやけど、当時の僕が好きやったんは、宮沢りえよりも、浅香唯でした。
だんだんと、何の話か分からんようになって来ましたけど(笑)、僕が、ポカリスエットの宮沢りえのCMを覚えているのは、この年(1990年)は、ボクシングで無敵やったマイク・タイソンが、東京ドームで試合をして、初めての敗北を喫した歴史的な年やったからです。
当時、ボクシングが好きやった僕は、この時の試合をビデオに録画していて、何度も、繰り返し見たもんですけど、そのラウンドの合間に、何度も、その宮沢りえのCMが登場するんです。
せやから、僕は、今でも、その傘を、宮沢りえが持っていたのを、ハッキリと覚えています。
ちなみに言うと、その時、バックに流れていたBGMも・・・・・。
~続く~